教会の桜の木が新緑に変わった。桜の花びらが美しく舞っていた時期と違い、今はもう桜の下を歩く人が立ち止まって木を見上げることはめったにない。
この三月末で教会管理事務の眞柄さんが退職されて、桜の花びらとガクの掃き掃除の奉仕が必要となり、七人の方が応募に応えてくださった。雨風の強い日の翌朝は汗だくの掃除となる。少し手伝わせていただいて改めて思ったことは「桜の木は生きている!」ということ。ものすごい花びらとガクの量は人間にとっては「厄介もの」だが、しかし「桜の木の命の証し」に他ならない。桜の木は人々から見られていようといまいと、黙々と新しい緑を芽吹かせ、そして来年の花の季節に向けて力を蓄えていく。人々が桜を喜ぶのは一年のうちほんの二三週間にすぎないが、それ以外の十一か月間も、桜はその時々に大切な歩みを黙々と生きているのだ。
スポーツ選手でもタレントでも、人びとは「華」を求めてその人が一番輝いている時だけ注目するけれど、多くの場合、「華」が過ぎると誰も見向きもしなくなる。そういう人びとの気まぐれな視線や言葉に振り回されることなく、黙々とその日に大切にすべきことを大切にしていく生き方とはどういうものだろう。神さまから与えられた命を大切に受け、育み、愛していく。優しさと勇気をお互いに分け合っていく、その励ましを聖書から受けていきたいと願う。
私たちに命を吹き入れてくださった神さまは、今日こう語りかけている。
「ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザヤ43・1)。