巻頭言「神のいのち ~ベトザタの池にて~」加藤 誠

 先週の主日が教会の暦で「受難節第一主日」でした。「受難節第六主日」が受難週の礼拝、七週目がイースターになります。今年の受難節を皆さんはそれぞれどのように過ごそうと考えていますか。

 わたしに示されたのは「新しい歌」というキーワードです。

 詩編九五編は冒頭で「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え」と呼びかけていますが、すべての人が歌うように招かれている「新しい歌」とはどのような歌なのか。さまざまな意味で希望を見出しにくくなっている今日、主イエスはどのような「新しい歌」を届けてくださっているのか。そのことを十字架に向かう主イエスの歩みに聴きたいと願っています。

 さて都エルサレムのベトザタの池のほとりに三八年間、横たわり続けてきた人がいます。三十八年という年月は人生の大半です。この人が何歳からこの池にいるのは分かりませんが、たぶん最初に来た時には一緒だったであろう家族はいつのまにか顔を見せなくなっていたのではないか。両親が亡くなり、きょうだいも疎遠になり、池のほとりの「競争」から取り残され、池のほとりに一人で横たわるだけの日々を過ごしていたのではないかと想像します。

 この人の前に主イエスが立った時、「死んだ者が神の子の声を聞く時がくる。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(ヨハネ5・25)という御言葉が成就します。池のほとりで「死んでいた」この人を起き上がらせ、床を担いで生きる者とした「神のいのち」とはどのようなものであったのかを、今朝、聖書に聴いていきましょう。