巻頭言「神、我らと共に ~喜びの灯~」加藤 誠

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1・23)。

 マタイ福音書はイエス・キリストの福音を紹介するのに「系図」から始めています。イスラエルの人びとは系図を大切にしましたが、多くの場合それは「神の選びと血統の正統性」を誇るためでした。特に大祭司にとって「血統の正統性」は絶対であり、「不都合な人びと」(重い病気や障がいのある人、異邦人の血が混じっている人)がいた場合には、彼らを「系図」から消し去りました。そのような人物は「存在しなかった」ことにしたのです。

 ということは、マタイ福音書も「イエスは純血なイスラエル人で、ダビデ王の血筋につながる正統なメシアだ!」と証明しようとしたのでしょうか。

 いいえ、違います。

 マタイは「血統の正統性」においては「不都合な事実」の数々を、あえて「系図」に書き込んでいます。「タマル」(3節)は「姦淫によって身ごもった」と汚名を着せられた女性であり、「ラハブ」(5節)は「異邦人の遊女」、「ルツ」(5節)も「異邦人」、そして「ウリヤの妻」(6節)は決して赦されないダビデの罪を想起させる表現です。イスラエルの人びとが深い痛みをもって想起せざるをえない出来事の数々を、マタイは「なかったかのように隠して正統性を演出する」のではなく、さまざまな破れと傷を抱えた「我らと共に」インマヌエルの主が歩んでくださっている「福音の喜び」を語ろうとしたのです。

 私たちが消しがたい傷や悲しみを抱えていたとしても、一人ひとりの人生が確かに「イエス・キリストの恵み」につなげられていることを覚えたいのです。