使徒言行録七章が伝えるステファノの殉教の場面を読むと心がつぶれそうになります。人間はここまで残忍になれるのか。創世記で神は「我々に似せて、人を造ろう」と愛の息吹を吹き込んで人を造ってくださったのに、このステファノの殉教の場面に「神の似姿」を見出すことはできません。
ガザの惨状を伝えるニュースが重なります。子どもだけでなく大人も医師たちも餓死に追い込まれているのに、そこになおミサイルが撃ち込まれていく。こんな残忍な行為を正当化できる「正義」とは何なのでしょうか。
その中でステファノは十字架の主イエスそのままを生きています。
「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(使徒7・59)、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(同60)。ステファノは人々の怒りと憎悪を一人で受けているのではない。十字架の主イエスと共に受けています。
この現場にサウロ(のちのパウロ)が居ました。「ステファノの祈りがなければ使徒パウロは誕生しなかった」とアウグスティヌスが語っているように、悲しみの殉教から信仰が起こされていく。ここにも「神のところが」が起こされています。
そのパウロがのちにガラテヤ書五章でこう語っています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(22~23節)、「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」(25節)。
霊の導きなしに私たちは誰かを愛せないし、喜びや平和をもたらすこともできない。霊の導きとは十字架における罪の砕きと愛の注ぎです。
「砕かれ、受けて、歩む」。ここに十字架の主に従う信仰が示されています。