巻頭言「石を握りしめる者たちへ ~愛のみが罪を正しく裁く~」加藤 誠

 神殿の境内で「姦通の女」を取り囲む人々(男たち)の手には石が握られていました。いつでもこの「女」を石で打ち殺すことができるようにと。しかしヨハネ八章を最後まで読むと、人々が石で打ち殺したいとほんとうに考えていたのは、実はイエスその人であったことが分かります。

 「わたしの裁きは真実である。わたしは父と共にいる」(16節)、「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」(58節)と、父なる神との一体性を語るイエスを人々は許せませんでした。「おまえは悪霊に取りつかれている」と罵倒し、神を冒涜する罪でイエスを抹殺すべく、人々はその手に石を握りしめていたのです。しかし、この人々のように自分の「正義」を疑わず、手に石を握しりしめている姿は、どこか私たちの姿に重なるものがないでしょうか。

 主イエスは言われます。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)。

 ここに示されるのは、罪ある私たちは誰かの罪を「正しく裁く」ことはできない。人間の罪を「正しく裁く」ことができるのは神のみだということです。

 現代もさまざまな「姦通」を巡る裁判がありますが、その多くが闇の下で行われ、強者(ほとんど男)による情報操作がある中で、人間である裁判官が真実に即した「正しい裁き」をすることはほぼ不可能に思われます。

 では誰が闇の下の人間の罪を光の下に照らし出し「正しく裁く」ことができるのか。それは十字架に自らをささげた愛なる神のみ。愛のみが私たちの罪を正しく裁くのです。石を握りしめている者たちを神の愛に連れ戻し、その石を手放して生きるよう招いておられる方に、今朝も聴いていきましょう。