巻頭言「新しいぶどう酒を受けて 加藤 誠」

 「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手をおいてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」(マタイ9・18)。

 主イエスのもとに一人の父親が来て、切々と懇願した。

しかし「死んでしまった娘」がどうして生き返るだろうか。「死にかけている」ならともかく「死んでしまった」のである。落胆し、うろたえ、錯乱し、主イエスに取りすがっている父親の姿を想像する。彼は自分が語っていることが無理と分かりながらも、「主イエスよ、あなたなら受けてくださるはずです」と、どこにもぶつけようのない悲しみを主イエスのもとに携えてきたのではないか。そしてその父親の切なる願いを主イエスは両手で確かに受け取られた。

当時「死」はケガレとして忌み嫌われ、律法は「死体」への接触を厳しく禁じ制限していた。それゆえ神に仕える祭司やレビ人、律法学者たちは決して「死体」に近づかなかったのだが、しかしながらここで主イエスは「死んだ少女」に触れて、人びとが恐れ忌み嫌うケガレを身に受けることをまったく躊躇していない。私たちが「もう無理、不可能」とあきらめ、日常から切り離して蓋をしようとする「死」の中に大胆にも分け入って神の救いの宣言をしていく。そして少女が神の愛の中に確かに生かされていることを示されて、父親と家族のもとに返されたのであった。

「新しいぶどう酒」(マタイ9・17)として来られた方は、私たちに「新しい革袋」を求める。私たちが「これはこうするほかない、仕方ない」とあきらめ、自分たちには手に負えないと切り離そうとする出来事の中に「見よ、わたしは新しいことをなす」と語られる方の声をしっかりと聴きとっていくようにと。