先週の第二礼拝後「祈る喜び」というテーマの「分級」には七クラスに七七名が参加し豊かな分かち合いとなりました。やはり教会の「元気の源」は「御言葉と信仰の分かち合い」にありますね。教会学校の働きに感謝します。
今朝は「主日礼拝の喜び」について聖書から聴きましょう。
ユダヤ教(旧約聖書)は十戒の教えに従い、「週の七日目」である土曜日を「安息日」として遵守し、礼拝日として聖別しました。一方でキリスト教会は主イエスが復活された「週の初めの日」である日曜日を「主の日」とし、礼拝日として聖別しました。使徒言行録二〇章には最初期の教会が「週の初めの日」にパンを裂くために集まり、夜を徹して(!)礼拝した様子が記されています。
聖別とは「神のものを神のものとすること」。すべての罪は「神のものを自分のものと勘違いする」ことから生まれるからです。それゆえキリスト教会は「主日は神のもの」として聖別し、礼拝を「死守」してきました。
「死守」を辞書で調べると「命がけで守る。必死に守る。(古い因習に)固執する」とありました。今の時代、「死守」という言葉は「死語」になりつつあるのでしょうか。しかし私たちが「今日はこの用事があるから」と「神のことを自分のしたいことと並列にして「選ぶ」ようになるところで「崩れてしまうもの」があるのではないでしょうか。
「新しいぶどう酒」である主イエスを喜び、「新しい革袋に入れる」とはどういう意味なのか。「主日礼拝を大切にまもる」ことの意味を改めて聖書からしっかりと聴いていきたいのです。