先週一六日の朝の祈祷会では教会の聖書日課に沿って使徒言行録一三章を分かち合った。多目的ホールで「密」にならないように気を付けながら御言葉と祈りを分かち合い、励ましをいただく貴重なひと時である。
使徒言行録一三章は、パウロとバルナバがアンティオキア教会から異邦人伝道に派遣される場面だが、このアンティオキア教会は、ステファノの殉教で始まった大迫害のためにエルサレムから脱出した人びとが、離散した先々で御言葉を語ったことで生まれた群れである。迫害によって人々が散らされて各地に教会が生まれていくなどということは、ただただ不思議な主の持ち運びとご計画としか言いようがない。メッセージ後の分かち合いでは「迫害を受けて散り散りバラバラにされて、なお福音を語るというようなことが自分にできるだろうか」という感想が語られた。確かに、迫害を受けて命の危険にさらされたなら、「もうキリストはごめんだ。もう決して語るまい!」と信仰を捨てる人がいて当然な状況である。しかし弟子たちは散らされた先々で、出会った人びとに主イエスにある救いを喜んで紹介していったのである。
コロナ禍により教会に共に集まることができなくなって三年目。顔と顔とを合わせて励ましあうことができないしんどさがボディブローのように効いてきているように思う。けれども、各々が「散らされた先」で「今できること」「今だからできること」があるのだろう。一人ひとりの試行錯誤を励まし用いてくださる主が伴ってくださっている。今年のイースターは四月一七日。それに先立つ受難節は三月二日から始まる。今日、神の恵みと救いを手探りで求めている私たちの間にインマヌエルの主は確かに生きておられる。その方の語りかけを聞き取り、お互いに届けあい、イースターを迎えていきたい。