巻頭言「手ぶらでは帰れない?」加藤 誠

「ハイデルベルク信仰問答」の問1の答えには「この方(キリスト)はご自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い…」という言葉がでてきます。この「わたしの罪を完全に償い」とはどういうことでしょうか。

 旧約聖書では、神の戒めに背いた人は手ぶらでは神の前に出られないと考えられていました。私たち人間同士の関係でも似たようなことが言えるように思います。ある人の信頼を裏切ってしまった者がもう一度信頼関係を築くには、その裏切りを「深く反省しているしるし」が求められます。「そんな大したことではない」という了見なら、簡単に同じ過ちが繰り返されてしまうからです。そのため旧約聖書は、神の戒めに背いた人に対し「深い反省のしるし」として動物の犠牲、時にはその人自身の命の犠牲を求めたのでした。

 それに対して新約聖書は、「神に対する裏切りは動物の犠牲でも、人間の自己犠牲でも、償いきれるものではない。ただキリストの十字架において示された神の恩寵(深い慈しみと赦し)のみが、私たちの裏切りを覆う。そして、この神の恩寵から漏れる人は一人もいない!」という福音を宣べ伝えるのです。

 父の財産をすべて食いつぶしてしまった「放蕩息子」(ルカ一五章)は、自分の愚かさと世間の冷たさに打ちのめされて、改めて父のあたたかな愛のもとに帰ろうと決心します。彼は「父の愛を離れては生きられない自分」を知ったのです。こういう時、私たちは「手ぶらでは帰れない」と考えます。「悔い改めにふさわしい、何か手土産が必要なのではないか」と。しかし父なる神が求めるのは手土産ではなく、「わたしはあなたの愛を離れては生きられません」という告白をもって、手ぶらでそのまま父のもとに帰ることだったのです。