巻頭言「愛の種」加藤誠

 アドベント四週目は「愛のともし火」を受けていきます。

 今、私たちの周りには「争いの種」があふれ、「憎しみの種」「憤りの種」が毎日まき散らされています。どこから?…私たちの心から。主イエスはその私たちの間に「愛の種」を蒔くために来てくださいました。

 主イエスの『毒麦のたとえ』(マタイ一三章)を想います。

 ある主人の麦畑に毒麦が生えてきました。僕たちが「行って毒麦を抜いて集めましょう」と進言すると、主人は「毒麦を抜くときに良い麦も抜いてしまうかもしれないから、刈り入れの時まで待て」と指示するのです。

 このたとえは私たちに何を教えているでしょうか。一つは、私たちには良い麦と毒麦を見分けられないということ。もう一つは、畑の麦の成長をあたたかく見守り、最終的な刈り入れをされる主なる神の導きを祈ること。

 私たちは自分の心に毒麦を抱えているので、他人の「麦の善し悪し」を裁くことはできないし、ましてある人を「毒麦と断罪する」ことがあってはならない。私が「毒麦」と考えた麦が実は神さまの目には「良い麦」かもしれない。私たちを真に正しく裁くことができるのは、罪人である私たちを愛し、その罪を十字架で引き受けてくださったイエス・キリストのみだからです。

 たくさんの「毒麦」を抱えた私たちの畑に、今日も主なる神は「愛の種」を蒔き続けておられます。その中で最大の「愛の種」はイエス・キリストご自身です。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの身を結ぶ」(ヨハネ12・24)。私たちを良い実りに導くために主イエスは十字架の生涯を生き抜かれました。この「愛の種」が私たちを正しく導いてくださるのです。