十字架への道を選び取って行かれた主イエスの心の中には「愛の神と共に生きる信仰」が赤々と燃えていたことを示すエピソードが、サドカイ派の人たちとの「復活問答」(マルコ12・18以下)です。
サドカイ派は、当時エルサレム神殿の祭司集団を形成し、宗教的な力と金の力、さらには政治的な力を握っていました。彼らにとって信仰は儀式でした。ローマの支配という現実の中で自分たちの神殿礼拝の権益が守られれば良かったのです。彼らは人間の常識と理性の範囲内で神の力を理解したので、「理性で説明できない復活を信じるのはバカげたこと」でした。
それに対し、主イエスの信仰は、神不在に見える世界を「愛の神と共に生きる力」であり、聖書は「今日私たちに語りかける、生ける神の言葉」でした。
主イエスはこの問答の中で「わたしはアブラハムの神…」という、神がモーセを召し出した言葉に言及していますが、それは「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、…叫び声を聞き、その痛みを知った…」(出エジプト3・7以下)という言葉とセットの言葉です。つまり神は、今この世界に満ちている「わたしの民」の苦しみ、叫び、痛みにふれて居ても立ってもいられず降って行かれる方であり、今生きて働いて私たちに語り掛け、御自身の働きに召し出す方。それなのに「あなたたちは大変な思い違いをしている!」と、サドカイ派の信仰の大きな問題を指摘されたのでした。
さて、わたしたちは今どのような信仰を生きているでしょうか。サドカイ派の「死んだ者の神の信仰」ではなく、主イエスの「生きている者の神の信仰」でありたいと願います。