使徒パウロは牢獄の中で「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた。豊かさにも貧しさにも、満腹にも空腹にも、自分の置かれた境遇に満足するすべを学んだ」(フィリピ4・11以下)と語っています。
「満足する」とは「足ること」=「神の恵みは十分」という意味であり、「神の恵み」は「習い覚え、学んでいくもの」。別の言い方をすれば「神の恵みを見つけて喜んでいく」こと。信仰は、毎日小さな修練を重ねることです。
私たちの心はいつも「~があれば、~を食べられたら、~を買えたら」という「際限なき不満足」に支配されていることが多いのではないでしょうか。「もっと!」と願うわたしの欲望が尽きることはありません。
パウロは「肉のとげを抜いてください」とよく祈ったようです。「肉のとげ」とは何らかの病気だったようですが、「病気が良くなりもっと元気になれたら、もっと神さまのために働けるのに!」ということでしょう。ところが、そのパウロへの答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(第二コリント12:9)でした。あなたの病いの弱さの中にある「神さまの恵み」を学んでいくように、パウロは教えられたのです。
「こうであったらいいのに!」という願いが否定されているのではありません。朴思郁先生によると、ボンヘッファーは「祈りは自分の願いを神に通知することではなく、自分の願いを神の御心の中に置くことだ」と捉えたそうです。私たちが願いを神の御手に置くとき、「かなわなかった」ことにも意味が生まれます(朴思郁『一日一歩』)。神の恵みを学ぶ歩みは、確かな愛の約束に支えられているからです。