巻頭言「恐れるべきもの、恐れなくてよいもの 加藤 誠」

 主イエスは弟子たちを伝道に遣わすにあたって「恐れるべきもの」と「恐れなくてよいもの」を示された(マタイ10・26以下)。私たちは真に「恐れるべき神」を軽んじて背を向けているがゆえに、「恐れなくてよいもの」に心揺さぶられることが多いのではないか。ただし主イエスがここで「神を恐れよ」と言う時、それは「恐怖を覚えよ」という意味ではない。一羽の雀にも深い愛を注がれている神の愛を「畏れをもって大切に受け取りなさい」の意味である。

 かつて大学闘争の時代、東大の壁に「からだを殺しても、魂を殺せない者どもを恐れるな」と大書されていた話を聞いたことがある。機動隊を前に戦意を鼓舞するための言葉だろう。が、彼らは主イエスの言葉の後半「…を恐れよ」の部分を書くことはできなかった。見えない神への信心など、ナンセンス以外の何ものでもなかったからだ。

 それに対して聖書は「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1・7)と教える。「主を畏れ、悪を避けよ。そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になり、あなたの骨は潤される」(同3・7~8)と。神の愛にしっかりとつながれる時、私たちは真のしなやかさと強さを与えられていく。

「神よ、恐れるべきものを恐れる信仰を与えたまえ。恐れなくてよいものに向かい合う勇気を与えたまえ。そして、恐れるべきものと恐れなくてよいものを識別する知恵を与えたまえ。」(R・ニーバー「平静の祈り」に寄せて)