巻頭言「後 で」加藤 誠

 ヨハネ一三章はいわゆる「最後の晩餐」の場面であり、主イエスの受難と共に、弟子たちの裏切り・離反が語られていく、胸がキリキリ痛む場面です。

 後に弟子たちは、繰り返しこの場面を想い起しては、自分たちに対する主イエスの愛の深さと約束の真実さに心打たれたのではないでしょうか。

 一三章一節「イエスは…世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」の「弟子たち」は、直訳では「自分の者たち」です。弟子とは「主イエスのものとされた者」のことなのです。

 主イエスは「自分の者たち」の足を洗われます。当時のユダヤでは、外から埃まみれで帰ってきた人の足を洗うのは、ユダヤ人奴隷ではなく、外国人奴隷の仕事でした。ユダヤ人同士では決してしない賤しい働きだったのです。にもかかわらず、「先生」であるイエスが足を洗われる意味が理解できないペトロたちに主イエスは言われます。「今はわからないだろうが、後で分かるようになる」。

 続いてユダの裏切り、ペトロの離反を示しながら、こう言われます。「今はついて来れないが、後でついて来るようになる」(13・36)。どのようにして「後で」ついてこれるのか。一四章を読むと、ペトロが「自分で」ついていくのではなく、「主イエス」が再び来て、「迎え入れてくれるから」であること。「弁護者である聖霊」が、ペトロと主イエスとを「一緒に入れるようにしてくださるから」であることが分かります。

 ここで繰り返される「後で」。この「後で」に込められた主イエスの愛と祈り、そして確かな約束を、今朝、共に聴いていきたいのです。