巻頭言「後で、分かるようになる」加藤誠

 ペトロという弟子ほど、心熱く主イエスを愛して、全力を挙げて従いながら、早とちりで、やりたがりで、それゆえに主イエスにたくさん叱られ、たくさん教えられる恵みを体験した男はいないのではないでしょうか。

 例えばマタイ一八章で、「あなたこそメシアです」と告白すると、主イエスから「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上に教会を建てる」と言われて大喜びしたものの、あろうことかその直後に「サタン、引き下がれ!」と厳しい叱責を浴びて、彼の一番弟子としてのメンツは粉々に砕かれています。

 またヨハネ福音書一三章では、最後の晩餐の席で弟子たちの前にひざまずき一人ひとりの足をたらいの水で洗い始めた主イエスにペトロが「わたしの足などけっして洗わないでください」と言うと「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、わたしとあなたは何のかかわりもないことになる」と言われて、「では足だけでなく、手も頭も」と言いますと「足だけでよい」と諭されてしまう。主イエスがここで何を言わんとされているのか、チンプンカンプンで、何一つ主イエスの思いと行動を理解できない「ダメ弟子」ぶりを露呈しています。 

 しかしこの「ダメ弟子の筆頭」であるペトロが、どれほど主イエスに愛され、祈られ、「後で、分かるようになる」まで主イエスによって待ち続けてもらえたか…を聖書は証ししています。

 クリスチャンに求められるたった一つの条件。それはこのぺトロのように自分のダメさ加減を知りながらも足を洗い続ける主イエスの愛のぬくもりを知っていること。そして、その愛と赦しは「十字架の死」という贖いを通してあらわされたことを知っていることなのです。