巻頭言「平和の若枝 ~平和の灯~」加藤 誠

 先週から始まったアドベント。教育館の十字架塔に今年も星の電飾が取り付けられました。今、世界を覆う暗闇に比べるなら小さな光ですが、暗い夜空にきらめく光を見上げながら心の中に喜びが拡がるのを感じました。どんなに小さくても暗闇の中に「輝く星がある!」こと自体が、確かな希望なのです。

 四年前の十二月にアフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲さんの働きが絵本となり現地の子どもたちが学ぶ様子が報じられていました。タリバン政権は中学校以上の女子教育を中止していますが、首都カブールの「地下学校」では中村さんの絵本を読んで感想を述べあう女子生徒の一人が「将来は建築技師になって、中村さんのように人びとに希望を与えられるようになりたい」と語っていました。「一隅を照らす光」。己の分限を知って、目の前の働きに誠実を尽くす。神さまが中村哲さんを通して起こされた働きは、今も多くの人々の心を照らす灯であり続けていることに心熱くされます。

 イザヤは「エッサイの株から萌えいでる若枝」が「主の平和」を実現すると預言しました(一一章)。なぜ「ダビデの株」と言わずに「エッサイの株」と語ったのか。エッサイはダビデ王の父であり羊飼いでした。ダビデの孫レハブアムが王位を狙った時、十部族の長たちが「エッサイの子よ、お前はお呼びではない。家に帰れ!」(列王下十二章)と罵倒したように、「エッサイの子」はダビデ王を軽んじて呼ぶ時の言葉でした。イザヤは、ダビデ王の息子たちの不信仰を厳しく批判しつつ、「羊飼いの息子」に過ぎないダビデを王とされた主なる神の不思議が、主の平和を実現する確信を人びとに語ったのでした。

「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サム上16・7)。