巻頭言「平和の王 加藤 誠」

 旧約聖書を読んでいると「平和の王」の到来が切実に望まれています。神を畏れず欲におぼれた権力者たちの不正義によって、圧倒的に多くの民衆は貧しさと飢えの中に捨て置かれていたからです。

神の国が到来することは「弱い人や貧しい人のために正当な裁きが行われ、虐げる者が打ち砕かれること」を意味しました(詩編72編)。そのような真の平和は「知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り畏れ敬う霊」に満たされた「平和の王」によって実現すると待望されたのです(イザヤ11章)。

二千年前、飼い葉桶の中に貧しく生まれた赤ん坊に、人びとは「平和の王」を期待し、腐敗した政治的権力を打ち倒す革命的リーダーを夢見ましたが、その赤ん坊は「この世が求めるものとは異なる平和」(ヨハネ14・27)を実現するために十字架の道を選び取られました。今、この時代、この日本で、聖書が証しする「平和の王」の誕生を喜び礼拝することは、どういう信仰を指し示しているのでしょうか。

H教会のH牧師と話していると、この一ヶ月、教会のシェルターに仮放免になった外国籍の方を一人迎えることになったと聞きました。今や外国籍の労働者の働きなしに経済が成り立たないにもかかわらず、理不尽で非人間的な対応しかできていない私たちの国の貧しい政治の現状があります。今回の新礼拝堂建築工事の基礎工事を担ってくれているのはインドネシアとフィリピンの鉄筋工の方たちです。現場監督によると「日本人より真面目で一生懸命働いてくれています」とのこと。このアドヴェント、飼い葉桶に生まれた方をお迎えするにふさわしい信仰を祈り求めていきたいのです。