巻頭言「希望の収穫に向かって 加藤 誠 」

「毒麦のたとえ」。主イエスが語られた、不思議な、おもしろいたとえ話である。

 神はこの世界に良い麦だけを蒔かれたはずなのに、なぜ世界には毒麦がはびこっているのか?」。これはつまり「神は愛であるのに、なぜこの世界には悪がはびこり、憎悪や対立、悲しみにあふれているのか」という問いに重なる。

たぶんこれは聖書を読む誰しもが一度はぶち当たる問いではないか。

このたとえ話で主イエスが言わんとされていることの一つは「神の御心は、私たち人間にはとらえきれない。『これは毒麦だ』『これは良い麦だ』と先走って答えを出してしまうな。私たちの目には毒麦に見えるものが良い麦だったということもあるのだから」ということだろう。私たちの「小さな、視野の狭い正義感」が神の大らかでしなやかな働きを台無しにしてしまうことがあるのだ。焦らずにもう少し待ってみよう。神が用意しておられる不思議で豊かな収穫を味わう者とされるために。

もう一つは「ひとりの人=良い麦か毒麦」という読み方ではなく、「良い麦も毒麦も混在している麦畑=わたし」という読み方を促されているのではないか。つまり「わたしという麦畑に神さまは良い麦(愛)をたくさん蒔いてくださったのに、なぜか毒麦が何本も生えてきてしまっている。これって、どうしたらよいのだろう」という問いをもって読む。この場合も、人間である私たちの力で毒麦を完全に抜くことはできない。「刈り入れ」の時に示される主イエスの十字架の恩寵のみが、わたしの中に抜きがたく生えている毒麦を抜いて焼き尽くしてくださる。毒麦を抜くことに力を注ぐよりも、麦畑の収穫に最後まで責任をもち愛と祈りをもって関わってくださる方に信頼して、今を生きていく。その大きな恵みに招き入れられていることを喜んでいきたい。