巻頭言「届いてない叫びはない! 加藤 誠」

 聖書を読んでいると、どうしても不可解で納得できない箇所にしばしばぶち当たる。マタイ一五章の「カナンの女の信仰」の場面もその一つだろう。なぜ主イエスは彼女の叫びをこれほどまで冷たくあしらったのか、多くの人が首をかしげ、さまざまに解釈してきた。代表的なものは「この時点では、主イエスは異邦人伝道を国内に制限しておられた」という説。復活して初めて異邦人伝道に派遣されるのであって、それまでは異教徒の地では伝道されなかったというのだ。しかし主イエスは「ケガレた異教徒の地」であるガダラ地方に出かけている(八章)。二つ目は「主イエスはこの時、疲れていてお忍びで休息に出かけたので、癒しの求めには応じなかったのだ」という説。そして三つ目は「カナンの女の信仰を引き出すために敢えて冷たくされた」という説…などなど。

 しかし、いずれも私には納得がいく解釈ではない。異邦人に対して基本的にオープンで対等な姿勢を貫かれた主イエスがなぜこうまで冷たく失礼な態度を取られたのか理解できない。なので、いつか神の国で主イエスにまみえた時には「イエスさま、一つ質問させてください」と直接尋ねてみたいと思っている。どうしても分からないことも、また楽しからずや…なのである。

 むしろこの箇所で注目すべきは「カナンの女のユーモアある信仰」だろう。病の娘の癒しを必死に願う祈りを冷たく拒否されても、最後まであきらめずに、むしろユーモアをもって切り返していく彼女の信仰には母親の愛のすごみさえ覚える。彼女は知っていた。私たちには神さまの対応が「どんなに冷たく、つれなく」思えるような時でも、神さまに「届いていない叫びはない!」ということを。だから、私たちも祈り続けよう。「ほんとうに必要なことは神さま、あなたはご存知のはずです!」と。