巻頭言「宣 言 ~わたしはひとりではない~」加藤 誠

 先週二六日午後に行われた新田義貴さんの取材報告会は、教会として地域に「扉」を開けて、地域の方々と一緒に「平和」について考える貴重な機会となったように思います。

 講演後の質疑では「ウクライナもロシアもキリスト教国であり、聖書の『隣人を愛せよ』という教えに葛藤を覚えている人の言葉も紹介されていたが、人々はどんな思いで武器を手にしているのか。その場合、聖書のどの部分が根拠になっているのか」という質問が寄せられていましたが、それはまさに日本のキリスト者にそのまま向けられている問いだと思いました。

 そして、聖書の言葉をただ「頭の中を通る言葉」とするのではなく、自分の生き方、選択、決断に深く関わる言葉として、自分の「体の中を通った言葉」として行かなければならないと強く思わされたのです。

 ヨハネ福音書一六章は「しかし、勇気を出しなさい」(33節)という主イエスの言葉が有名ですが、「勇気を出しなさい」と訳されている言葉は、「子よ、元気を出しなさい」(マタイ9・2)、「娘よ、元気になりなさい」(同9・22)、「安心しなさい。わたしだ」(同14・27)のように、この世界に吹き荒れる逆風に漕ぎ悩み、深く傷つき、元気を奪われている一人ひとりに、主イエスが手渡していかれた「宣言」です。観客席から「頑張れ!」と叫ぶのではなく、同じフィールドに立ち「共にある覚悟」をもって語られた「宣言」なのです。なぜなら主イエスご自身が十字架の上に「ひとり取り残された」時に、父なる神が「共にいてくださった」から。つまり、あの十字架は子なる神(イエス)と父なる神が一つになられた場所だったから。

 主の晩餐式にあずかる今朝、この主イエスの宣言に聴いていきましょう。