「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」と、主イエスは語られました。 冗談ではない。なぜ悲しむ人が幸いなのか。わたしは目の前に泣いている人がいるときに「あなたは幸いですね」とはとても言えません。
けれども主イエスは「幸いである!」とはっきり言い得た。なぜなら主イエスには、はっきり見えておられたからだと思います。今悲しみに沈んでいる人々を必ず心の底から慰め支えてくださる神が共におられることが。
その主イエスもまた孤独と絶望の中で涙を流し尽くし、悲しみを悲しみぬき、十字架で死んでいかれましたが、神はそのイエスを見放されず、「嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせ」(イザヤ61:3)てくださいました。神は「慰めの源なる神」(ローマ15:5)だからです。
もう一つ、主イエスに見えていたもの。
それは、悲しみを経験した人びとが持つ優しさではないかと思います。使徒パウロも次のようなことを語っています。「(苦難を通して神の慰めを知ったあなたがたは)あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(第二コリント1・4)。悲しみを経験した人だからこそ、悲しみの人の傍らに立つことができる。なぜなら十字架の主もそこに共に歩んでくださるからです。
アモス・オズというイスラエル人の作家が大江健三郎との往復書簡で次のようなことを語っています。「孤独の足し算は不思議なもので、一プラス一は孤独の二倍ではなく、おそらく半分です。一人の人間の痛みがもう一人と結ばれると、時には痛みが癒やされることさえあります。」
十字架の主が私たちの間に携えてきてくださった慰めと喜びの福音に、今朝も聴いていきましょう。