巻頭言「問題がないことが問題」塩谷 直也(青山学院大学)

 子どもを亡くした母親が預言者エリシャのもとに駆け付ける(列王記下4章)。エリシャは遠くからその来訪を確認、従者ゲハジを迎えに行かせる。そのゲハジが母親に会うなり一言。「変わりありませんか…子どもは変わりありませんか」 母親は答える。「変わりございません」そう言うや否や、母親はゲハジを無視してエリシャにすがりつき、その苦しみを吐露する。

ゲハジからのアプローチを「変わりございません」と受け流し、すぐにエリシャのもとに向かった母親の姿に、相談する人間の内情を見る。人は苦しいから「苦しい」というのではない。「苦しい」との言葉を受け止める聴き手の前で初めて苦しいというのだ。悲しいから機械的に涙が出るほど人はロボットじゃない。涙の受け止め手が見つかるまで、こらえた涙はダムの水、せき止められたままだ。少なくとも母親にとってゲハジは、涙を託せる相手ではなかった。

 うちの教会(学校)ではLGBTの人々の孤立、DV、貧困、性被害、自傷行為、オーバードーズ、摂食障害、自死など聞いたことがないというのなら、教会(学校)がこの「ゲハジ」となっている可能性が高い。あなたが「お変わりありませんか」と聞く。子どもも保護者も笑いながら「変わりございません」と言って教会を後にする。どうせ話したところで世間話と挨拶ばかりが長くなる、もしくは教会側のメッセージばかりを聞かされる。気がつけば教会の外にいる「エリシャ」に救いを求めて人々は消える。うちの教会には今のところ問題がない、と言い切るならそれが問題である。