巻頭言「同じ資格のある者として 加藤 誠」

 先日、新聞のあるコラムに考えさせられた。次のような内容である。

「入管施設で亡くなったウィシュマ・サンダマリさんの家族が、監視カメラ映像を見て衝撃を受け、『姉は動物のように扱われ殺された』『入管は人の道を外れている』と訴えた。『外国人は煮て食おうと焼いて食おうと自由』。一九六五年に池上努という法務官僚が自著で言い放った言葉だ。日本政府がこれほどまでに外国人の人権をないがしろにするのはなぜなのか。その答えは日本国憲法の制定の経緯の中に潜んでいる。

 GHQ草案では『法の下の平等』は『一切の自然人』を対象としていた。『外国人は平等に法律の保護を受ける権利を有する』という内外人平等の規定もあった。しかし日本政府は内外人規定を削除し、『法の下の平等』の対象を『すべての国民』と限定し外国人を排除した。その背景には、日本という国を特別な家族だと考える国体観念の残滓(ざんし)があった。それは今も日本人の潜在的意識に根深く残っている。この観念を根絶しない限り外国人への人権侵害は続くだろう」(『本音のコラム』前川喜平。二〇二一・八・一五、東京新聞)。

 聖書の中でも「他民族をどう取り扱うのか」を巡って、イスラエル民族を「神の民」と神聖化して他民族(異教徒)を敵視する思想と、自分たちもかつてエジプトで寄留者として苦労した経験から、領地内で暮らす他民族を隣人と考える思想とが衝突し葛藤している。主イエスが生きた時代もそうだったし、弟子たちがキリスト教を伝えようとした時代にも教会内で繰り返し衝突が起こった。

さて今日、私たちは聖書をどう読んで教会の姿をイメージし、この国の中でどう考え行動していくのか。今朝は、エゼキエル書の「彼らを同じ資格のある者として」(47・22)の言葉を手掛かりに聞いていきたい。