巻頭言「再召命の朝」加藤誠

 マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は「共観福音書」と呼ばれ、共通の資料をもとにしている関係で似かよった部分が多いのに対し、ヨハネ福音書はそのユニークな編集視点と構成で知られています。主イエスに関する独自のエピソードが満載で、共観福音書では名まえだけしか登場しない弟子たちにスポットライトが当てられ、その語り口と論理展開はちょっと「宇宙人」的なところがあるものの、深く心に残る言葉が多く、これまで大勢の人々に愛されてきた福音書です。ヨハネ福音書のおかげでどれだけイエス・キリスト像とその福音が多角的に、立体的に浮かびあがるものになってきたか。そういう意味で「ヨハネさん、ほんとうにありがとう!」と伝えたい思いでいっぱいになります。

 キリストの教会も同じです。多様な人びとが、それぞれの人生の中で出会ったイエス・キリストを自分の言葉で多様に証し、紹介していく交わりでありたいのです。「一つの言葉/一つの信仰」にまとめられてしまうことなく、自由で多様な交わりの中にこそ主が働かれることを喜んでいきたいのです。

 さて、ヨハネ二一章は、復活の主と出会いながら、なぜか故郷であるガリラヤに戻り、漁に出かけている弟子のペトロたちが描かれています。なぜこのエピソードが福音書の最後に加えられたのでしょうか。

 想像するに、復活の主から「平和があるように!」「わたしはあなたがたを派遣する」と言葉をもらっても、ペトロの心の中には「あの夜」のことが重く鉛のように残っていて、どうしても新しい一歩を踏み出せずにいたのではないか。三度も「イエスなど知らない」と口にしてしまった自分に、果たして神の愛を伝える資格があるのかと。しかし、その朝、ペトロはかつてガリラヤ湖のほとりで聞いた主イエスの召命の言葉を再び聴くことになったのでした。