キリスト者として生きる幸いは、主イエスによる「先立つ恵み」の約束をいただいていること。主イエスを信じれば「あらゆる不条理の災いを避けることができる」わけではない。しかしどのような明日であっても、そこに「先立つ恵み」を「杖」としていただいて歩むことができる。その幸いはなんと大きなものでしょうか。
先週はあけぼの幼稚園の設立に際しての大谷賢二先生の思いを紹介しましたが、左の一文はちょうど同じころ、一九四八年三月に矢内原忠雄が「嘉信」に掲載した文章です。
矢内原忠雄は若き日に内村鑑三を通してキリストを信じ、のちに東京大学教授になりますが、専門の植民地政策の見地から日本の軍国主義的侵略戦争を批判したために大学から追われた人です。大変厳しい嵐のような闘いにあっても、「平安にいこい、窮することなく、ああ楽しいかな!」と歓喜と希望に生かされている姿に、主イエスの恵みの力と明るさを知らされます。
われらの一日は永遠の中にあり、また一日の中に永遠がある。
永遠に生きる者の生涯は、怠ることなく、急ぐこともない。
勇敢に戦い、平安にいこいて、臆することなく、窮することもない。
夜は疲れても、朝には力を新にせられ、
土曜日には傷ついても、日曜日にはよみがえる。
ああ楽しいかな、イエスを信ずる者の生涯、
それは永遠に生きる者の、屈託するところなき、歓喜と希望の生涯である。