巻頭言「何も残らない日が来る 加藤 誠」

ヒゼキヤは、ダビデ王国の歴代の王たちのなかで「信仰深い名君」と称えられた王だった(列王記下18・5~7)。聖書はヒゼキヤに起こった「二つの奇跡」を記している。一つは、都エルサレムがアッシリアの大軍に囲まれた時に不思議にも疫病が流行ってアッシリア軍が敗走し、エルサレムは滅亡を免れたこと。もう一つは、ヒゼキヤ王が死の病にかかりながら神の憐れみによって寿命を十五年伸ばしてもらったこと。この「二つの奇跡」はヒゼキヤが神からどれだけ愛された王であるかを示す故事として語り継がれたのだった。

そのヒゼキヤのもとにバビロンから全快祝いの使者が来た時、愚かにも彼は宝物庫や武器庫を案内しすべてを見せてしまう。バビロンは反アッシリアの盟主だったので、王としては同盟関係を強固にしたいと考えたのだろう。しかし預言者イザヤは「主の言葉を聞きなさい。あなたが今日まで蓄えてきたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らない日が来る」と厳しく叱責した(イザヤ三九章)。模範的な信仰ゆえに「名君」と呼ばれたヒゼキヤ王だったが、「自分は神に愛されているから大丈夫」という慢心が生まれ、自分が依り頼んだバビロンによって王国の滅亡を招くことになってしまったのだった。

私たちの「信仰」というものは、なんと不確かでもろいものだろうか。人々の目に「模範的」と映っても、それはけして完全ではない。

私たちの「信仰」は日々神から届けられるものであって「私たちのもの」ではない。私たちが自分の努力で獲得したものならば失うことはないが、「信仰」とは不思議なもので、私たちが「神さま、今日、わたしに信仰を届けてください」と祈ることを止めたなら、あっというまに失われてしまうものなのだ。