ある方がこう言われていました。
「幼稚園の頃に聞いた聖書のお話のイエスさまは、優しくて強くて何でもできるヒーローだったけれど、福音書のイエスさまはけっこうズタボロに言われてたりしてそのギャップに戸惑う。弟子に向かって『サタンよ!』と言うイエスさまには正直『えっ、こんなこと言うの?』とショックだった」と。
その意味では、今朝のマルコ九章の「地獄の火」と呼ばれている段落は、主イエスの言葉として受け入れがたいショッキングな言葉の一つではないでしょうか。こんなこと言われたら「この自分はどうやって救いに入ることができるのだろう」と絶望的な思いにさせられる箇所です。
その中で「人は皆、火で塩味を付けられる」(49節)の言葉に目が留まりました。この言葉には旧約聖書レビ記が反映されています。律法では神へのささげものに必ず塩をかけて火で焼いてささげました(レビ記2・13)。塩と火によってささげものは「清められ」神に受け入れられるのです。とするなら、この言葉は「人は皆、火と塩で清められる」と理解できそうです。
この場合の「火と塩」とは何か。ある人は「聖霊」のことではないかと解釈します。バプテスマのヨハネは主イエスを「聖霊でバプテスマを授ける方」(マルコ1・9)と言いましたが、「人の子らが犯すどんな罪もどんな冒涜の言葉もすべて赦す」(マルコ3・28)聖霊の働きによって、私たちは神の前に清いものとされ受け入れられる。その聖霊は十字架のキリストを通して私たちに注がれる。
ここに、片手や片足、片目だけでなく、体も心もすべてが罪にまみれて「地獄の火」に投げ込まれるほかない私たちに対する十字架の福音が示されているのではないでしょうか。