巻頭言「事実、それは神の言葉であり 加藤 誠」

使徒パウロが書いた「テサロニケの信徒への手紙一」は喜びと感謝と明るさに満ちている。例えば四章の「キリストの再臨」についてパウロが書いている箇所を水曜日の朝の祈祷会で分かち合った時、ある方が「パウロの手紙を読んでいると、わたしもイエス様に会いたいなぁという思いにさせられてくる」とうれしそうに語っておられた。「死は虚しい終わりではない。主イエスは復活させられた。まもなく私たちは、空中に引き上げられて、主イエスや先に眠りについた信仰の先達たちと会うことができるのだ!」というパウロの言葉は、現代人の私たちには荒唐無稽に思えるけれども、パウロにとってはそれだけ主イエスとの再会の希望はリアルなものだったのである。

 使徒パウロの伝道は苦難の毎日であった。伝道に出かけていく先々で激しい反発を受け、十数年の伝道活動の三分の一は獄中であった。にもかかわらず、パウロの中には主イエスがリアルに生きていた。それはパウロ自身が復活の主イエスの働きを日々体験していたからではないか。パウロにとって復活の主は十字架の主であった。その十字架の主が、コテコテのユダヤ教律法主義者であるパウロを打ち砕き、「怒りの器」であった彼を「憐みの器」に造り変えた。「事実、それは神の言葉であり」(第一テサロニケ2・13)。パウロは「十字架の主は生ける神の言葉として、事実、私たちの中にリアルに働く力」であることを体験していたのだ。

 私たちが生きている世界は暗澹たる闇に覆われている。ウクライナ、ミャンマー、沖縄…、あらゆる場所で「どうして、こんなことが!」という悲しい現実にあふれている。けれども、この暗闇を神の憐みと恵の光で照らし続けてくださる神の言葉、十字架の主が「事実」生きておられる。私たちもこの方の光をリアルに受け取り、共に教会の働きに励んでいきたい。