巻頭言「主イエスの名で立ち上がり、歩く 加藤 誠」

 いったい何か月ぶりなのだろう。ほぼ九ヵ月ぶりの分散礼拝の再開となった。新しい礼拝堂に早く一堂に会して礼拝をささげたい思いを抑えながら、先日の執行委員会では慎重に四グループでの分散礼拝の再開が確認された。それでも久しぶりに共に集って礼拝をささげられる恵みを主に感謝したい。

 その一方で心の中に「漠たる不安」がモヤモヤとうごめいている。これからも私たちは大井バプテスト教会を共に形づくり歩むことができるのだろうか。

 日曜日に礼拝に行かなくても、それで何か不都合が起こるわけではない。自分の都合に合わせてオンライン礼拝を見ればよい。別に大井教会の礼拝でなくても、他の教会で興味のある礼拝を渡り歩くこともできる。

 献金や祈り、奉仕は「せねばならない戒律」ではないし、しない者に対して神が厳罰をくだすわけでもない。

 ではなぜ主の日に私たちは教会に集って礼拝をささげ、奉仕を担うのか。それぞれオンラインで礼拝につながっていれば良いのか。教会ってなんなのだろう?大井教会のメンバーであるとはどういうことなのだろう?

 エルサレム神殿の「美しの門」に置かれていた生まれつき足の不自由な男は、「主イエスの名で立ち上がり、歩け」という言葉に、躍り上がって立ち上がり、ペトロたちと一緒に神殿の中に入っていった。「礼拝するため」である。

さて私たちは今日、主イエスの名で立ち上がり歩んでいるか。日曜日から始まるそれぞれの日々に主イエスの名で歩むことがほんとうに起こっているか。

今朝も聖書が映し出す自らの姿を見つめ、心と体を主の前に整えたい。