巻頭言「主を喜び祝うことこそ 加藤 誠 」

 私たちは四月五日の受難週礼拝から「共に集う礼拝」を休止し、約三か月ぶりに「共に集う礼拝」を再開しようとしています。この間、主日礼拝をインターネット配信したり、希望者には週報と説教原稿を事前郵送するなどの工夫をして、主の日にそれぞれの場所で礼拝をささげてきました。その中で多くの方たちが「自分にとって主日礼拝とは?」「教会ってなんだろう?」という問いと向かい合わされたのではないでしょうか。神を礼拝することは一人でも自宅でも成り立ちます。なのになぜ私たちは「共に集う礼拝」をささげるのでしょう。

「最初のうちは緊張してパソコンの前に座っていたけれど、家の電話が鳴るとつい出てしまうことがあって、『これは違う!』と思うようになった。自分の日常を後ろにおいて、神さまを第一に選び取り、教会に集い合う礼拝がやはり大切なのではないか。家にいるとつい自分の都合中心になり、自分に心地よい言葉しか受け取らない。でも教会に来ると、これだけいろんな個性、考え方の違う人たちが、それでも一緒に神さまを真ん中にして礼拝する。その礼拝に大切なものがあるのではないだろうか」(先日のある集まりで語られた言葉)。

 なぜ「共に集う礼拝」をささげるのでしょう。ネヘミヤ八章には、バビロン捕囚から帰還した当初は各々の故郷の町に住んでいた人々が、破壊されたエルサレム神殿跡に集まり、「一人の人のように」なって、エズラが朗読する「律法」の言葉に聴き入り涙した様子が記されています。人びとにエズラは語りかけます。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(10節)と。私たちの力の源である礼拝を今朝共にささげられる幸いを心から感謝します。