巻頭言「主は、向こう岸へ 加藤 誠 」

 主イエスが宣べ伝えた「神の国の福音」は大勢の人びとに喜ばれる一方で、人びとの間に大きな苛立ちや畏れを生みました。主イエスの「神の国の福音」は当時の人々の「常識」を問い直し、「タブー」に切り込むものだったからです。それゆえ主イエスに従う弟子には「覚悟」が求められました。マタイ八章の後半は、その「覚悟」を巡るエピソードとして読むことができそうです。

弟子入り志願者たちをまずうろたえさせたのは、「向こう岸に渡ろう」という主イエスの言葉でした。「向こう岸」とはガリラヤ湖の対岸であり、ユダヤ人にとって「ケガレた異教徒たち」が住む地です。その「向こう岸」に行くことは自らも「ケガレた者」と同一視される大きなリスクを意味しましたが、主イエスはそのリスクを承知で「ケガレの境界線」を軽々と超えていかれるのです。

また「向こう岸」を目指した舟が嵐に飲まれそうになった時、弟子たちの中には「ほら、神が怒られて『向こう岸などに行くな』と言っておられるに違いない!」と思った者もいたことでしょう。私たちには神が与えてくださる喜びよりも、人びとの冷たい視線の方が怖いのです。

そして、そのようなリスクを冒して出かけた「向こう岸」で主イエスは歓迎されたかというと、そうではありませんでした。墓場を住まいとする二人の「狂人」を癒したにもかかわらず、地域に多大な経済的損失を招いたゆえに、「向こう岸」から追放されてしまうのです。神の前の罪深さという点では湖のどちらに住んでいようが関係ないのでしょう。

さて、このような主イエスの「神の国の福音」を生きるということは、今日、コロナ禍を歩む私たちにとって何を意味するのでしょうか。私たちの中の「向こう岸」を見つめながら考えてみたいのです。