巻頭言「一粒の麦」加藤 誠

 主イエスが十字架への深い覚悟をもってエルサレムに上られたのは、過越の祭りの時で、エルサレムの都は世界中の巡礼者たち(ユダヤ人と異邦人改宗者たち)でごった返していました。この少し前に主イエスがベタニア村でラザロをよみがえらせた事件が街中で評判となり、ろばの子に乗ってエルサレムに入城した主イエスを人々は「ナツメヤシの枝」で熱狂的に迎えたのです。

 その時、ギリシャ人(たぶんユダヤ教に改宗した人たち)がぜひ主イエスに会いたいとフィリポを通して伝えたところ、主イエスはご自身の死を通してもたらされる「多くの実り」を「一粒の麦」に重ねてこう語られました。

 有名な「一粒の麦」の言葉です(ヨハネ12・24~25)。

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」(24節)。

「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(25節)。

 ここで「一粒の麦」とは「主イエス」のことですが、続く25節で主イエスは御自分に従う者たちにも深い覚悟を迫っています。つまり「一粒の麦」は主イエスのことであると同時に、私たち一人ひとりも「一粒の麦」なのだと主イエスは言われたのだと受け止めます。

 私たちは「こんな小さな者が…」と思ったとしても、この世界で小さな一人を通してご自身の御業をあらわされる愛の神を信じる幸いを主イエスは語られたのです。この招きにこめられた主イエスの祈りに聴いていきたいのです。