先週は、今年の阪神淡路大震災の追悼の集いで語られた言葉を手がかりに、「追悼」とは先に亡くなった人と自分の命をむすび合わせながら、その人が生きた意味を考え、自分がいま生きる意味を考え続けることではないかと語らせていただきましたが、今週もその続きです。
重松清の小説『希望の地図』は、学校に行けない少年が父の知り合いのルポライターと共に東北の被災地を巡り、そこに生きる人々との出会いを通して自らの生き方を考えるというノンフィクションノベルです(以下に登場する「熊谷さん」は実在のカトリック信者の方がモデルだそうです)。
「これだけの圧倒的な、そして理不尽とさえ言える災害の中、「神」に救いを求めることはありませんでしたか?」
熊谷さんは少し考えてから、「救いは求めませんでしたが、ずっと祈っていました」と言った。なにかの願いを叶えるための祈りではない。それはむしろ問いかけに近いものだった。「神さまは何を考えているのだろう。生き残った私はなぜ生き残って、なにをすべきなんだろう…。それは震災のあとずっと、いまでも祈り続けています。」そして、熊谷さんは一つの言葉を田村と光司に教えてくれた。「ダーバール」というヘブライ語である。「この言葉には『出来事』と『神の言葉』という二つの意味があるんです。つまり、出来事とは神の言葉と同じなんです。だから、震災という出来事も神の言葉であるならば、それはどういうものだろう、と。」もちろん答えはすぐには見つからない。それでも、熊谷さんの胸に不安はない。「神さまは自分に必ず道を示してくださるに違いない。そういう安心感、信頼感が自分の中にあるんです。それが私にとっての信仰と言えば信仰なんですね。」