巻頭言「キリストにありて『一つ』」加藤 誠

 先週は「神学校週間」に重ねて、バプテスト教会における「献身」を考えました。「献身」は神学校に行くことを決意した人だけの特別なことではなく、キリストに従う決意をいただいた時から、すべてのクリスチャンの「献身」が始まっていること。「この世的生き方」と「クリスチャン的生き方」の二つを都合よく使い分けて生きるのではなく、「日曜日の礼拝」が月曜日から土曜日までの歩みと重なるように、一人ひとりが祈り格闘していく。そのような「献身」にすべてのクリスチャンは招かれていること。

 ただ、私たちの「献身」や「祈り」に先だって。まず主イエスご自身が自らをささげられ、今も「御名を知らせ」続けておられる。キリストの「献身」と「祈り」こそが、大井教会の土台であることを聖書から聴きました。

 さて先週取り上げられなかったヨハネ福音書17章20~23節を取り上げます。この短い数節に「一つ」という言葉が四回も出てきます。主イエスがここで繰り返し祈っておられる「一つ」とは、どのような「一つ」なのでしょうか。

 ヨハネが伝えようとしているのは、主イエスに足を洗われて初めて立ちうる私たちという意味での「一つ」であり、この世に御名を知らせ、神の栄光をあらわす使命において「一つ」ということでしょう。また他の新約聖書によれば(第一コリント12・12以下、ガラテヤ3・28、エフェソ2・14~15)、教会が大切にしたのは、多様性を失った「一つ」ではなく、一人ひとりの個性、違い、多様を喜ぶ「一つ」であり、敵意の隔ての壁を壊されて「新しい一人」にされた「一つ」であることを示されるのです。

 今朝は、この「一つ」に込められた主イエスの祈りに聴きたいのです。