先週の日曜日午後に開かれた「これからの教会を語り合おうⅡ」で、ある方がニコデモの姿に重ねてこんなふうに語られていました。
「コロナ禍を通っている私たちの教会の現実を、たとえば会計報告の厳しい数字に見る。このような中で教会が多額の借り入れをすることで誰がどのような犠牲を払うことになるのだろうと考えると心が震える思いがする。他人事ではなく、これを自分の信仰のこととして受ける時、どう受けたらよいのだろう。そんな時にニコデモの姿が示された。『水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない!』というイエスさまのすごい説教を聞かされて、すごすごと背中を丸めて帰っていったニコデモ。しかしニコデモはそれでイエスさまとのつながりが切れてしまったのではない。イエスさまが十字架でなくなった後に没薬を携えて遺体を引き取りに行っている。そのニコデモを見ていると『ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである』(ピリピ3・16口語訳)というパウロの言葉が浮かんできた。コロナ禍にある私たちの教会の姿を見つめながら、しかしこれからの教会の未来像をしっかりみんなで話し合うことができたらと願う。総会が成立すること。そして、イエスさまにある希望を見ながら話し合うことのできる総会となるように祈っている」。
新礼拝堂建築は一人ひとりの信仰のことがらです。「きれいごと」ではなく、「わたしのこと」として語れるようになっているでしょうか。「神さま、助けてください」という祈りが絞り出されていく中に見えてくるキリストを、大切に受けていきたいのです。