巻頭言「イエスは主なり」加藤誠

 ペンテコステの恵みを心から感謝します。

 先週の礼拝では十人の方がそれぞれ自分の言葉で聖霊の働きを証ししてくださいました。ペンテコステ委員会の一番大きな喜びは、証しを依頼した十人が全員受けてくださったことです。ただただ神さまの働きを賛美するほかありません。そのお一人お一人の証を聴きながら、聖霊の働きはなんと多様で、それを受ける人の個性や感性もなんと多様なのだろう…と感嘆しました。これだけ多様な私たちを「イエスは主なり」という告白において「一つ」としてくださっている神さまの働きを覚えたいのです。

 使徒パウロは、多様であるがゆえにバラバラになりかけているコリント教会の人びとに語りかけました。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と(第一コリント12・3)。

 つまり「イエスは主なり」という告白は「人間わざではない」ということ。私たちが一生懸命に勉強して、修練して「獲得するものではない」し、「自分の所有物にできない」ということです。日々、神さまから「与えられるもの」であり、「与えてください」と祈り求めるものです。

 バプテスマの恵みは一度きりであって毎日バプテスマを受ける必要はありません。主イエスが十字架で一度きり死なれたからです。しかし昨日クリスチャンだったから今日もクリスチャンかというと自明ではありません。「イエスは主なり」という信仰は毎日いただくものだからです。その点において「自分だけは大丈夫!」と誇れる者は誰もいません。一人ひとりが聖霊の自由で多様な働きの前に低くされるところに、主の教会は日々建てられていくのです。