巻頭言「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊 加藤誠   

 皆さんは祈る時、主なる神を何と呼んでいるだろうか。教会の中では「天の父なる神さま」とか「愛する天のお父さま」という呼びかけをよく耳にする。それは主イエスが「祈るときにはこう祈りなさい」と教えられた『主の祈り』で、「父よ」(ルカ11章)、「天におられるわたしたちの父よ」(マタイ6・9)と祈るよう教え、ご自身もゲッセマネでは「アッバ、父よ」と地面にひれ伏し祈られたことに依拠している。

 そのため、私たちの中には「神=父=男」というイメージがほぼ出来上がってしまっているのだが、興味深いことに旧約聖書では神を「父」と呼ぶ例はごく数例しかない。むしろ神を母性的に描いた表現もあり(例えば母鳥が翼の下にひなを集める描写など)、神のジェンダーは「男」に特定されていない。なぜなら人間は神を都合よく偶像化しがちなため、旧約聖書は神を一つのイメージに固定化させることを戒め、「我が岩」「我が避けどころ」「我が助け」など、各人がそれぞれ人格的に出会った神を自由に表現する豊かさを私たちに教えてくれているのだ。

 一方、新約聖書では主イエスの祈りに始まり、初代教会では神を「父」と呼ぶことが習慣化していく。ただ「アッバ」とは幼児が父親を呼ぶ言葉で「おとうちゃん!」という意味であり、主イエスが「おとうちゃん!」と地面にひれ伏し、もだえ苦しみながら祈る姿は衝撃ですらある。が、自分の弱さを神の前にすべてさらけ出せるほど、主イエスは神との交わりを親しく生きられたのだ。だとすると「神=父=男」と習慣化した呼び名で祈るよりも、自らをすべて明け渡すほど神の前に小さくされて、一回一回魂を込めて、自分の親しみやすい呼び名で神を呼び、祈ることが大切なのではないか。