旧約聖書の列王記に、死の病にかかったヒゼキヤ王が神に向かって「寿命を延ばしてください!」と嘆願すると、神はその願いを受け入れたしるしとして日時計の針を十度戻されたという出来事が記されていますが、このエピソードを受けてある牧師が次のように書いていました。
「わたしは三浦綾子の小説『氷点』の一場面を思い起こした。夏枝が村井と密会していた時に、自分の娘を幼児殺しに殺されてしまう。夏枝は河原に走っていき『もし戻せるなら時間を戻したい』と嘆くのである。非常に厳しい『時間』というものが問われていると思う。時間は一度過ぎたら再び戻らない。しかし、それを元に戻す世界が実現した。キリストの十字架である。キリストの十字架だけが日時計を十度後ろに戻してくれるのである。」
この文章を読みながらわたしなりに考えてみました。主イエスは「時計の針を戻してもう一度やり直させてくださる方」というよりも、「時計の針を戻せない世界を生きる私たちに命と希望を与えてくださる方」ではないかと。
主イエスは、十字架の受難など無かったかのように「きれいな身体で」弟子たちの前に復活したのではありません。十字架の釘跡が深く残る身体で復活されました。弟子たちの裏切りの大失態が無かったかのように消去されたのではなかったのです。しかし復活の主は、信仰薄く情けない弟子たちに聖霊の息吹を吹き入れ「生きる者」としてくださいました。「わたしは去って行くが、戻ってくる」(ヨハネ14・28)。私たち人間は何度もつまずき神を裏切る。しかし主は赦しと平和を携えてまた「戻ってくる」。この方の聖霊を受ける時「この世が与えるのとは異なる平和」(14・27)を生きる者とされるのです。