主イエスは十字架に向かうご自分の受難と死について「三度」弟子たちに語っていますが(マルコ八章、九章、十章)、「三度」ともその直後に弟子たちは主イエスを失望させています。ペトロは「そんなことはあってはなりません!」と言い、皆で「誰がいちばん偉いか」と語り合い、ヨハネとヤコブは「あなたの右と左に置いてください」とお願いしに行く…。
なんとも情けない限りです。が、そんな彼らに主イエスは「三度」弟子たる者の心得を語り聞かせます。「自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従え」「仕える者となれ」「子どもを受け入れる者となれ」。そして極めつけは「わたしの杯を飲み、わたしのバプテスマを受けられるか」と。
この弟子たちの姿は、まさに私たちの姿でしょう。
私たちは主イエスに従って神の国を歩みたいと思う。けれどもこの世を支配する価値観は魅力的で、その引力を振り切って神の国を生きることはほんとうに難しい。
神さまのために働きたい。でもどこかで良く言われたい。仕える者となりたい。でもやっぱり成功と言われたい。自分をささげたい。でもちょっとは尊敬されたい。「でも、どこかで、ちょっと」。私たちにしみ込んでいるこの世の価値観が心の中でささやくのです。「捨てきれないわたし」がそこにいます。
この世の価値観から抜けきれない私たちに向けて主イエスが語られる「わたしの杯、わたしのバプテスマ」とはどういうものなのでしょうか。今日も私たちを神の国に招いておられる十字架の主の言葉に聴いていきましょう。