巻頭言「むすぶ」加藤誠

 今年の一月一七日の朝、神戸の東遊園地にはたくさんの灯篭のともし火によって「むすぶ」という文字が浮かび上がっていました。震災の記憶の風化をふせぐために「人と人、場所と場所、思いと思いをむすぶ」との願いが込められて選ばれた言葉とのことでした。

 追悼の集いでは震災で二十歳八カ月のお嬢さんを失った七五歳の父親が語られました。アパートのがれきの山をかき分け見つけた娘の足が氷よりも冷たくなっていた感触、目の前の娘を助け出せない自らの無力と無念さに打ちのめされながら考え続けた娘の二十年間の命の意味。「追悼」とは、亡くなった人の命と自分の命とをむすび合わせながら、自分が「今、これからを生きる意味」を考え続けることなのだ…と知らされました。

 私たちは、何と何を「むすぶ」のでしょうか。

 イエス・キリストの信仰をいただくとは、イエス・キリストと自分を「むすび」、聖書と現実を「むすび」、自分が「今、これからを生きる意味」を考え続けることではないでしょうか。

 聖書の中で「むすぶ」という言葉は印象的に「二つ」語られています。

 一つは、神がわたしたちと契約を「むすぶ」という宣言。ふらふらと神に背を向けて歩むわたしたちに、神が繰り返し「わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」と呼びかけ続けるのです。

 もう一つは「実をむすぶ」という言葉。イエス・キリストの喜びがわたしたちの喜びとなるとき、私たちは「実をむすぶ」ことができるのだと。

 今朝も聖書の語りかけに共に聴いていきましょう。