若松英輔さんは「ほんとうのよろこび」について、次のように語っています。(以下は『光であることば』より抜粋し一部要約したもの)
人はよろこびがなくては、生きていけない。からだが水を必要とするように、心はよろこびを希求する。だが、私たちはしばしば、何が自分にとっての真の「よろこび」であるのかが、わからなくなる。わからないものを探すのはむずかしい。
喜び/悦び/歓び/慶び
どれもたしかに「よろこび」なのだが、どれも究極のそれではないようにも思われる。快楽とよろこびは同じではない。よろこびは快楽のないところにも生まれる。私たちは悲しみの底でも、それを感じることがある。
キリスト者が日曜日に、ミサや礼拝に行くように、ユダヤ教徒は毎週土曜日を安息日(あんそくび)とする。安息日には労働は禁じられている。
人はその日を自分たちのためでなく、大いなるものに捧げなくてはならない。
ユダヤ教のラビの家系に生まれたE・フロムは次のように語っている。
「シャバット(安息日)には、人はあたかも何も持っていないかのように生活し、あること、すなわち、自分の本質的な力を表現することのみを目標として追及する。すなわち、祈ること、学ぶこと、食べること、飲むこと、歌うこと、愛の行為を行うこと。シャバット(安息日)は喜びの日である。というのは、その日に人は十全に自分自身になるからである。」
私たちが毎週日曜日を大切にとりわけ、礼拝に集うのは何のためでしょうか。それは主イエスを通して「ほんとうのよろこび」を習得していくためです。