巻頭言「なぜ十字架なのか 加藤 誠」

 主イエスの最期はなぜ十字架でなければならなかったのか。十字架に至る道には、主イエス自身のいくつかの選び取りがあったように思う。

 ①主イエスは「自分を憎悪する人びと」に近づく道を選ばれた。

 ガリラヤというホームグランドなら自分を支持する民衆たちに囲まれていたはずだったが、敢えて主イエスはアウェイであるエルサレムに向かわれた。それは「自分を憎悪する人びと」も神から愛され招かれている一人ひとりであることを神から示されていたからではないか。

 ②主イエスは「力を捨てて」侮辱を受ける道を選ばれた。

 主イエスには奇跡を行う力が神から与えられていたが、エルサレムでは一切その力を放棄された。裁判の席でも、でっち上げと嘘で固められた証言に一切反論することなく、十字架上でも侮辱を受け尽くされた。「力を捨てて」この地上で「小さくされた一人ひとりと共にあること」を選ばれたからではないか。

 ③主イエスは「見えない神との深い交わり」を選ばれた。  主イエスは「人の子」としての願いをもち、不安や恐れもあった。それはゲッセマネの祈りに表出している。徹底して「人の子」として生きながら、徹底して「見えない神との深い交わり」に生きられたのが主イエスである。主イエスの祈りは私たちとはまったく違う。私たちの祈りは「自分の願い中心」だが、主イエスの祈りは徹底して「主なる神中心」である。不合理と不条理あふれる世界を「人の子」として生きながら、神の信仰と希望と愛に根ざして生きる喜びの道を主イエスは私たちに遺してくださったのである。