「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって…」(マルコ10・50)。
抑えきれない喜びを全身であらわしている盲人バルティマイの姿が見えるようです。
彼はまだ癒されたわけではありません。ただ、これまで路上を行きかう人々の間に空しく消えていった彼の叫びが「受け止められた!」「受け止めてくれる人がいた!」。そのことを喜んでいるのです。
主イエスは「そのために」来てくださいました。そして「そのために」なお道を進んでいかれます。十字架に向かって。
「イエスは『何をしてほしいのか?』と言われた。盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った」(同10・51)。
「何をしてほしいのか」という問いは、実はこの直前にヤコブとヨハネにも向けられたものです。そして主イエスは二人の的外れな答えを厳しく戒められました。それに対して「目が見えるようになりたいのです」というバルティマイの願いを「あなたの信仰があなたを救った!」と言って喜ばれている。これはどういうことなのでしょうか。
「盲人は、すぐに見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」(同10・52)。バルティマイはなお十字架に向かって進まれる主に「従うため」見えるようにしていただいたのでした。
主イエスが求められる信仰は「私たちの一歩前を十字架に向かって進まれる主に従う信仰」であり、日々「その主イエスを見失うことがないよう、目が見えるようにしてください」と祈る信仰なのです。