巻頭言「ともし火は燭台の上に 加藤 誠」

 「ともし火のたとえ」(ルカ福音書8・16~18)で語られ、問われていることはどういうことだろう。「ともし火を寝台の下に置く人はいない」とは、ごく当たり前のことである。こんな当たり前のことをなぜ主イエスは語られたのだろう。それは、主イエスが従う者たちの中に「ともし火を寝台の下に置いているような信仰」を見られて、「いったい、あなたがたは受け取ったともし火をどう取り扱っているか、考えてみよ」と厳しく問われたのではないか。

 例えば、今年のイースターでは復活の主の「希望の光」に焦点を当てたが、暗闇覆う世界に与えられた「希望の光」を「ともし火」と重ねるなら、私たちは「ともし火」をきちんと燭台の上に置いて、日々その光に照らされる歩み、世界を「ともし火」の光のもとに希望をもって見る歩みができているだろうか。

 「どう聞くべきかに注意しなさい」(18節)とも語られている。

 復活の主は十字架の主である。復活の主の「ともし火」に日々照らされるとは、十字架の主に心と体を向けて集中し聴いていくこと。十字架の主の御言葉を右から左に聞き流しているようでは「ともし火」を寝台の下に置くことになり、「持っているものまでも取り上げられる」(ルカ8・18)ことになる。

 リコンストラクション(再構築)。それは新しい礼拝堂で新しい可能性に皆で挑戦していく歩みでもあるが、その時に一番大切なことはわたし自身が日々祈りで神とつながり、復活の主の「ともし火」をきちんと燭台の上に置いて、十字架の主に集中し聴いていくこと。なぜなら主の「ともし火」は、未熟な私たちと暗闇の世界を神の国に向けてリコンストラクションしていく大きな力を秘めているからである。この「ともし火」に照らされる歩みを求めていこう。