福音書には「安息日」を巡って、主イエスと律法学者たちが激しく衝突している場面がいくつも出てきます。「安息日」は、主なる神から「聖別せよ」「いかなる仕事もしてはならない」と命じられた日ですが、律法学者たちが「これはしてはいけない」と禁止条項を事細かに決めて、病気の癒しも厳しく禁じたのに対して、主イエスは堂々と病気の癒しをされました。
ヨハネ五章で「安息日」に癒しをしたことを厳しくとがめる人々に対して、主イエスは「わたしの父は今も働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と応えておられます。主イエスにとって「安息日」は「父なる神と共に働く日」だったのです。
「安息日」のヘブライ語(シャバット)は「止める」という意味の言葉です。わたしたちはふだん動きすぎている。とにかく神さまの前に手を休め、静まり、「安らかな息」を神さまからいただく。それが「安息日」です。
同時に主イエスは、イザヤ書58章13節にあるように「安息日」を「神を喜び、神を尊ぶ日」として能動的に理解しておられたのだと思います。神さまの「安らかな息」を胸いっぱいに吸い込んで、こわばり固くなっていた心を柔らかにされた一人ひとりが、隣り人と神さまの豊かな慈しみや優しさを分かち合うことに押し出されていく日。それが主イエスの理解する「安息日」でした。
さて、私たちは「安息日」をどのように聖別し、神さまのものとして大切にささげていくのでしょうか。「だから、わたしも働く」と言われる主イエスに従う一人ひとりでありたいのです。