巻頭言「ただで受けたのだから 加藤 誠 」

 先々週末に、礼拝堂の十字架塔が手作業で丁寧に解体されて十字架と鐘が降ろされ、先週は大きな重機が入って礼拝堂本体の解体が始まった。教会員それぞれに大切な信仰の想い出が刻まれた礼拝堂がその役割を終えていく。この機に製本された『大井バプテスト教会堂の記録』(平井充氏)を手に大谷恵護先生が語られた次の言葉を記しておきたい。

「内部の写真をつくづく見ながらこの古色蒼然(長い年月を経ていかにも古めかしく見える様)とした木造建築が私たちにこう語りかけているように思いました。『教会のみなさま、よくぞこの私を繰り返しの増築、改築修理など丁寧な手入れを重ねながらここまで使い切ってくださいました。わたしの責任と使命は終わりました。教会のみなさまありがとうございました。感謝』と。私も多くの先輩方と共にこの神より必要に応じて備えられた建物を心燃やされながら、また常に将来を夢見ながら使い込んできたもんだとそれぞれの写真に見入り思いを新しくされました」。

 六八年の間、この地に十字架を掲げてきた礼拝堂がその役割を終えていくのを見つめながら、これから大井教会の私たち一人ひとりがどのように「十字架」を周りの人びとに指し示し、喜びと慰め、そして希望の出来事としてのイエス・キリストを証ししていくのか。その内実が問われる迫りを覚えている。

主イエスは「御国の福音」を弟子たちに託すにあたり「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10・8)と言われた。私たちが「ただで受けたもの」は何か。「ただで与える」とはどのような生き方を指し示しているのか。今朝も聖書に尋ね求め、聴き取り、分かち合っていきたい。