巻頭言「その道は十字架に向かう 加藤 誠」

 主イエスは「癒し主」と呼ばれる。その場合の「癒し主」とはどういう意味だろう。

 主イエスはさまざまな「病気を癒す」方として来られた。ルカ福音書の四章に紹介されているカファルナウム伝道でも、「汚れた悪霊に取りつかれた男」、「高い熱で苦しむシモンのしゅうとめ」をはじめ、「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた」(4・40)とある。「治療する」ことを「手当てする」というが、主イエスの優しい手を通して、人びとは自分の苦しみや悲しみを包み込むあたたかい祈りに触れて、病の中から立ち上がり明日に向かう力を注がれていったのではないかと思う。

 けれども、翌朝になるとなぜか主イエスは「人里離れた所へ出て行かれ」、「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」(4・43)と言ってカファルナウムの町を出て行かれた。「自分たちから離れないでほしい」としきりに引き留める人々の声を背にして。これはいったいどういうことなのだろう。

 ここに主イエスが「人びとの願いを叶える栄光のメシア」ではなく、「人びとの罪に向かい、神の愛のもとに立ち帰らせる苦難のメシア」として来られたことが示されているように思う。主イエスは「病気からの回復」にとどまらず、私たち人間がもっと深いところで必要としている「癒し」。つまり悪霊からの解放や罪の赦しにあずかって、神の愛と正しさのもとに立ち帰る「人間性の回復の癒し」を祈り、十字架に向かって歩まれた救い主なのである。

 その主イエスの深い祈りを受けていきたい