東北の故郷で地道に伝道されている他教派のS牧師が、こんな内容の発信をしておられた。
「桜並木で有名な展勝地の駐車場が閉鎖されると聞いて、ライトアップの消えた夜に出かけてみた。桜並木の向こう側に街灯りが見えるほかは真っ暗な公園で、いつもはあまり見えないものが結構よく見えた。ライトがあるとかき消されてしまう星空にちょっとした感動を覚えた。あるのが当たり前と思えていたものが次々と取り去られ、閉ざされた時に、ずっとそこに変わることなくあった神さまの恵みに気づけるなら、それは何よりの再発見だ。厳しい時が続いているけれど、そんな再発見できたら幸いに思う」。
十字架の主イエスは、小さくささやかな姿で、私たちの間を共に歩みたもう「インマヌエルの主」だ。私たちの目が大きなもの、キラキラした華やかなものに目を奪われている時には見えないけれど、私たちがこの世界で経験する悲しみや嘆き、痛みの深みを確かに共に歩みたもう。
主イエスは「さいわいなるかな!」という宣言をもって、ご自身の宣教活動を始められた(マタイ五章)。ふつうなら「さいわい」と思えない現実を生きる一人ひとりの傍らを、主イエスご自身が「共に歩む深い祈り」を込めて。
主イエスは私たちを「山」に招かれる。ちまたにあふれる人の言葉ではなく、神の言葉にまず聴き、静かに祈り、十字架に心を集中させていく「礼拝」に私たちを招かれる。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイ5・3)という言葉で始まる主イエスの「さいわい宣言」に、今朝、心を集中させて聴いていきたい。