先週の総会において私たちは大切な、そして大変に重い決議をしました。
単純に賛成か反対に分けられないグレーな思いや葛藤を抱えながら議論に参加した私たち。「新礼拝堂をいただきたい」。けれどもコロナ禍における教会財政の課題への心配、コロナによって社会や教会がどう変化していくのかを見通せない不安。そして同じ課題を見つめながらも、実に多様でなかなか「一つ」になれない私たちの現実。にもかかわらず教会として「一つの結論」を選び取らなければならない、大変な息苦しさを味わいながらの決議。きっとあの総会決議の後も各々が家に帰ってからも思い巡らし、考え続け、「さらに、さらに、祈る」ように促しを受けているのではないかと想像します。
先週の主日礼拝では、「ただ、わたしたちは達し得たところに従って進むべきである」(ピリピ3・16口語訳)というパウロの言葉を受けましたが、「神さま、私たちを憐れみ助けてください。過半数ぎりぎりの決議。これが今の私たちの姿であり、達し得たところです。あなたの助けなしに、私たちはこの大きく重い決議を背負い歩んでいくことはできません。どうかあなたの御業に向けて歩ませてください…」と祈るほかない私たちなのだと示されます。
「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」、「もしわたしがあなた(の足)を洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」(ヨハネ13・7~8)。
主イエスの前では誰一人として「自らの正当性」を語れない弟子たちの足を、主イエスは黙って洗われました。この主の愛と赦しと執り成しを「土台」とせずして私たちは立ちえません。「互いに足を洗い合いなさい」(同13・14)との言葉に込められた主イエスの深い祈りと招きにあずかっていきたいのです。