巻頭言「こんな石ころからでも 加藤 誠」

 映画『ベン・ハー』の冒頭、ナザレの村人が老ヨセフの大工の仕事場にやってきてこんな会話を交わす場面がある。「息子はどこにいった?また仕事を怠けているのか?」「父親の仕事をすると言って山に出かけたよ」「父親の仕事?それならどうしてここにいないんだ?」。けげんそうな顔をして去っていく村人と、再び黙って大工の仕事にとりかかるヨセフ。もちろん聖書にはこのような場面はないが、十二歳にして「わたしの父の仕事」、すなわち「神からいただいた召命」を深く意識するようになった息子をどのように扱ったらよいのか、戸惑いつつも静かに見守る父親ヨセフをよく描いたシーンだと思う。

やがてイエスはバプテスマのヨハネが宣べ伝える「悔い改めのバプテスマ」に共鳴してバプテスマを受ける。当時、異邦人がユダヤ教に改宗するためのバプテスマは行われていたが、ユダヤ人がわざわざバプテスマを受けるなど誰も考えの及ばないことだった。けれどもヨハネは「自分たちはアブラハムの子孫だ。今さら神に悔い改める必要などない」と胡坐をかく人々に「あなたたちこそ悔い改めのバプテスマを受けて神に立ち帰る必要がある。神はこんな石ころからでもアブラハムの子を造り出せるのだ!」と厳しく迫ったのだった。

「私たちはどうしたらよいですか?」と尋ねる人々に対してヨハネは特別に難しいことを語っていない。徴税人であることや兵士であることを「辞めろ」とも迫っていない。誰もがやろうと思えばできること、つまり「あなたが神さまからいただいている仕事において、隣り人を愛するとはどういうことかを考えて実行していきなさい」と語りかけている。

神の正しさと愛にしっかり心と身体を向けて歩む。今日わたしが遣わされている場所で、隣り人と一緒に分かち合えることは何なのだろう。それを考え続けたいと思う。